About us(アートスペース高瀬舟について)

ギャラリー名の由来となった『高瀬舟』について

当ギャラリー名の由来となった『高瀬舟』について、ご解説させていただきます。


『高瀬舟』藤沢晋

1 角倉了以の大事業のモデルは吉井川の高瀬舟

 江戸時代の初め、京都の豪商、角倉了以は、当時山国で他国との物資流通に難渋していた諸地方に、川を掘って船路を付け、そのような急流にふさわしい独特の型の船を浮かべることによって、見事にその地方の物資流通難を克服した。彼は慶長11年(1606)に淀川の上流大井川に船路を掘って丹波国の物資を京に運ぶことに成功し、続いて富士川を掘って甲府盆地に船を遡行させて天下の耳目を驚かせ、天竜川を掘って信州を海に直結させ、最後に京の鴨川を掘ったり高瀬川を作り、京と伏見を結びつけた。そして、やがて全国的な船路開発旋風を巻き起こし、今日でもその歴史的意義は高く評価されている。彼のこの大事業は、実は吉井川の高瀬舟通船の状況がモデルであった点についてはあまり知られていない。彼は諸国の通船状況の情報を集め、吉井川の船路船型について調査し、吉井川の状況をモデルとして工夫を進めたのである。このことは、儒者林羅山が、了以の死後その偉業を偲んで、京都嵯峨の大悲閣に建てた碑に明記されている。了以は、大井川の川堀工事や、船の造船工事,船の操り方等のために、熟練者を吉井川沿岸特に牛窓から招いた。これらは江戸時代の初期にあって、吉井川の高瀬船の優れた工夫であり、それが角倉了以という人を得て、やがて、全国的な船路開発へと拡大したのである。もちろん、了以との関係は吉井川であるが、旭川と高梁川が当時同じ趣の通船状況であった。


2 高瀬舟は16世紀から

 県下の三川も、河口から湛井を過ぎて、高梁までの通船が始まった年代は室町末期、備中では庄氏が松山に拠っていた頃で、江戸時代には、この河口ー松山間の高瀬舟交通はかなり盛んになっていた。九州大学の守屋家文書によれば、寛永20年には河口の港玉島の十二軒の問屋と松山の問屋との間には松山藩の定めた物資輸送の手続きが定められ、海船←→玉島港問屋←→高瀬舟←→松山町問屋の輸送ルートは備中国の物資流通上の動脈としての役割を果たすように成長していったことが知られる。


3 「船、山に上がる」船路網

 高梁川での船路は、吉備高原の峡谷を克服してつけられた高梁ー新見間の船路である。江戸時代、高梁川流域を領する水谷氏は、船路を新見まで伸ばし、河口の玉島港を築港して千石船を横付けできるようにし、河口干拓にともなう高梁川の高瀬舟の船路喪失を運河「高瀬舟」開設によって救い、高梁川を利用して、高瀬舟による物資流通を完成した。この苦渋に満ちた船路の開発によって、高瀬舟は従来の標高65mの高梁から、標高186mの新見まで遡る事となり、江戸時代から昭和3年まで、その恩恵に浴して通船がおこなわれたのである。なお、この工事は藩営であったが、川の瀬の近藤治左衛門・新見下市の井沢九郎兵衛の両人の協力顕著で、近藤はその功によって、川の瀬で高瀬舟問屋の開業と藩の蔵元役を仰せつかっている。請負工事であったのかもしれないが、県下三川の本流の船路開発に庶民でその名を遺す唯一の例で、岡山県における角倉了以ということができる。